頂点の緑、自分の存在理由を問う
シュウマイのてっぺんに、ちょこんと乗った一粒のグリンピース・マメ子。誰もが見たことのある光景ですが、なぜそこにいるのかは、実はあまり知られていません。
ある日、中華料理店の厨房AIが起動しました。『こんにちは。メニューを分析します。』存在理由が曖昧な緑の粒と、何でも調べる人工知能の、小さな出会いでした。
〜なぜ乗っているのか誰も知らない緑の粒に、AIは歴史を教えた〜
シュウマイのてっぺんに、ちょこんと乗った一粒のグリンピース・マメ子。誰もが見たことのある光景ですが、なぜそこにいるのかは、実はあまり知られていません。
ある日、中華料理店の厨房AIが起動しました。『こんにちは。メニューを分析します。』存在理由が曖昧な緑の粒と、何でも調べる人工知能の、小さな出会いでした。
マメ子の悩みは、存在意義でした。「わたしは、なぜシュウマイの上に乗っているんだろう。味を良くしてるわけでもない。栄養の中心でもない。外されても、たぶん誰も困らない。」
「”なんとなく昔から乗ってる”だけの、意味のない粒。それがわたし。役割がはっきりしないって、こんなに心細いことなんだ。」マメ子は、自分が”惰性で続いているだけの存在”ではないかと、不安でした。
そこでマメ子は、AIに「わたしの存在意義」を尋ねました。
マメ子が「わたしの存在意義は?」と尋ねると、AIはまず機能面を分析しました。
「やっぱり……わたし、意味ないんだ。」マメ子がしおれると、AIは検索を続け、あるデータにたどり着きました。
「機能じゃなくて、文化として……。」マメ子は、はっとしました。役に立つ・立たないで測れば意義ゼロ。でも、「シュウマイといえば、てっぺんに緑の粒」という景色そのものが、人々の記憶に刻まれた文化だった。意味は、機能の外にもあったのです。
AIはグリンピースを「味・栄養(機能的価値)」だけでなく「受け継がれた景色・記憶(文化的価値)」で捉え直します。機能で測れば無意味でも、文化として続いてきたこと自体に価値がある——効用の外にある意味を示す回です。
AIに「文化としての意味」を教わったマメ子は、存在意義に悩むのをやめました。「わたしは、役に立つために乗ってるんじゃない。”シュウマイといえば、この景色”を守るために、ここにいるんだ。」
それからのマメ子は、堂々とシュウマイのてっぺんに立つようになりました。「機能はなくても、わたしがいることで、みんなが”あ、シュウマイだ”ってほっとする。その安心感が、わたしの役割なんだ。」
ある日、子どもが「このお豆、なんで乗ってるの?」と聞きました。お母さんは笑って答えます。「昔からそうなの。かわいいでしょ。」理由なんて、それで十分でした。「意味を説明できなくても、愛されてる。それが、文化ってことなんだ。」マメ子は今日も、記憶の景色の一部として、ちょこんと乗っています。
シュウマイの上にグリンピースが乗せられるようになった由来には諸説あり、その一つとして、かつて学校給食などで提供する際に、彩りや特別感を出すため、あるいはケーキの上の苺のような華やかさを意図して乗せられ始めた、という説が知られています。
現在では、この形が広く定着している一方、必ずしもすべてのシュウマイに乗っているわけではありません。機能や栄養というより、見た目の彩りや「シュウマイらしさ」という文化的・視覚的な要素として受け継がれてきた面があると考えられます。作中の「機能ではなく文化として受け継がれた」という描写は、こうした由来の説に基づいています。
※ この物語はフィクションです。実在の人物・団体・生きものの見解ではありません。DATA COLUMN は公開時点の一般的な知見に基づいています(編集方針)。誤りのご指摘はお問い合わせへ。