日曜の朝、洗面所の鏡の前で
健康診断の結果票が届いた翌週の日曜日。営業二課の田村さんは、洗面所で体重計に乗りました。裸電球の下で、シャツをめくったところに、それはありました。
洗面台に置いたスマートフォンが、計測値を受け取って光ります。『体組成の記録を更新しました。ご相談があればどうぞ』——ビール腹と人工知能の、鏡の前での出会いでした。
〜転換率はどの段階も正しく出た。ただ、いちばん上にあったのは二十年ぶんの付き合いだった〜
健康診断の結果票が届いた翌週の日曜日。営業二課の田村さんは、洗面所で体重計に乗りました。裸電球の下で、シャツをめくったところに、それはありました。
洗面台に置いたスマートフォンが、計測値を受け取って光ります。『体組成の記録を更新しました。ご相談があればどうぞ』——ビール腹と人工知能の、鏡の前での出会いでした。
ビール腹には、引っかかっていることがありました。出はじめたころ、当時の部長にこう言われたのです。「腹が出てきたな。一人前になった証拠だ。」あのときは貫禄と呼ばれていました。
ところが今年の結果票では、こう書かれていました。腹囲、要指導。数字が先に来て、名前はあとから付いてくる。自分は少しずつ大きくなっただけなのに、扱いだけが変わっていました。
ビール腹はスマートフォンに尋ねました。「わたし、減らされたほうがいいのかい」
ビール腹は鏡の中で、しばらく黙っていました。それから、こう返します。「その月8件はな、二十年かけて増えたんだ。」
『……件数としては把握しています。』「件数か。お前、上を絞れば下も比例して減るって言ったな。合ってるよ。でもな、あの誘いは在庫じゃない。今月6件断ったら、来月はもう鳴らない。絞るんじゃなくて、消えるんだ。」スマートフォンが黙りました。
営業の流れを見込み客の獲得・育成・受注・継続の4段階に分け、それぞれの件数と転換率を数字で管理する型です。分業して各段階の専門性を上げつつ、どこで人が落ちているのかを見えるようにするために使われます。
田村さんは飲み会を減らしませんでした。かわりに、AIが出した数字の別のところを使います。4段階のうち転換率がいちばん低かったのは、いちばん下の「締めの一品」の83%。ここだけが、行きたくて行っている段階ではありませんでした。惰性で頼んでいたのです。
月5回あった締めが、ゼロになりました。半年後の結果票で、腹囲は3センチ減っていました。劇的ではありません。ただ、一度も飲み会を断らずに減ったので、続きました。
スマートフォンは分析を書き直します。『訂正します。当職は最上流の削減を推奨しましたが、利用者にとって上流は、すでに獲得の手間を払い終えた資産でした。削減の対象は下流に置くべきでした。なお、締めを我慢した回数のうち3回は、部下が頼んだ分を一口もらっています。これは当職の集計に含まれていません。』「一口はな」と田村さんは言いました。「勘定に入れなくていいんだ」
厚生労働省が2024年に公表した「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」は、お酒の量そのものではなく純アルコール量(グラム)で把握することをすすめています。計算式は摂取量(ml)×アルコール度数÷100×0.8。ガイドラインが挙げている例では、ビール500ml(5%)で20グラムです。
このガイドラインでは、生活習慣病のリスクを高める量として1日あたりの純アルコール摂取量が男性40グラム以上、女性20グラム以上が示されています。女性の基準はビール500ml1本、男性でも2本です。2024年度に始まった健康日本21(第三次)では、この量を飲んでいる人の割合を男女あわせて10%まで減らすことが目標に掲げられました。
同じガイドラインには、病気ごとにリスクが上がりはじめる量の表も載っています。大腸がんは男女とも週150グラム(1日20グラム)から。高血圧や男性の食道がんについては、ゼロを超えるとリスクが上がると記されています。ビール腹という呼び名がついていますが、体が受け取っているのは銘柄ではなく、この数字のほうです。
※ この物語はフィクションです。実在の人物・団体・生きものの見解ではありません。DATA COLUMN は公開時点の一般的な知見に基づいています(編集方針)。誤りのご指摘はお問い合わせへ。