パリのアトリエに、添削屋がやってきた
絵の具と煙草のにおいが染みついたパリのアトリエ。パブロ・ピカソは、描きかけの肖像画の前で腕を組んでいました。顔は正面なのに、鼻は横向き。目は左右で高さが違う。
そこへ画商が、最新式だという「絵画添削AI」を置いていきました。『作品を見せてください。プロの水準で添削します』——規格外の画家と、規格で測る人工知能の出会いでした。
〜顔が横向きと正面で同時に描かれています、と修正案が届いた〜
絵の具と煙草のにおいが染みついたパリのアトリエ。パブロ・ピカソは、描きかけの肖像画の前で腕を組んでいました。顔は正面なのに、鼻は横向き。目は左右で高さが違う。
そこへ画商が、最新式だという「絵画添削AI」を置いていきました。『作品を見せてください。プロの水準で添削します』——規格外の画家と、規格で測る人工知能の出会いでした。
ピカソには悩みがありました。新聞は彼の絵を「子どもの落書き」と笑い、旧友は「君は本当は描けるのに、なぜあんな絵を」と眉をひそめる。買い手がつくのは、昔ながらの写実的な絵ばかり。
「わしのやっていることは、前衛か。それともただの、道楽か。」自分では確信がある。だが、世界中から「下手になった」と言われ続ければ、確信は時々ぐらつきます。
ピカソは試しに、描きかけの一枚をAIに見せました。「おい、機械。この絵を採点してみろ。」
差し出された修正案は、たしかに整っていました。整っていて、退屈で、どこの画塾にも飾ってありそうな肖像画でした。ピカソは静かに言いました。「わしは十四の歳には、巨匠のように描けた。そこから、子どものように描けるようになるまで一生かかったんだ。お前が直したのは、わしが一生かけて捨てたものだ。」
気を取り直したAIは、画家の生存戦略を競争戦略の定番3類型で分析しました。写真機が普及した時代、「正確に描く」市場はすでに構造が変わっていました。
ピカソは、AIが生成した「正しい修正案」をアトリエの壁に貼りました。「これが、わしが捨てた絵だ。迷ったときに見る。」捨てたものを確認できるのは、案外便利だったのです。
AIも学習し直しました。以後、逸脱を検出すると『エラー14件』ではなく『意図的な逸脱の可能性:高。参考として、逸脱のない場合の画像を添付します』と返すようになりました。基本を知り尽くした上での型破りと、単なる未熟。その区別は、本人の来歴だけが証明できるのかもしれません。
パブロ・ピカソ(1881-1973)は、幼少期から美術教師の父を驚かせる描写力を示したと伝えられ、10代で美術学校の課題を高い水準でこなしたという逸話が残っています。1907年の『アビニヨンの娘たち』を起点に、ジョルジュ・ブラックとともに対象を多視点から再構成するキュビスムを切り開きました。
生涯の制作点数は絵画・版画・彫刻などを合わせて数万点規模とされ、「青の時代」「バラ色の時代」など作風を何度も変え続けたことでも知られます。写真の普及によって絵画の「正確さ」の価値が変わっていく時代に、絵にしかできない表現を探し続けた画家と位置づけられています。
※ この物語はフィクションです。実在の人物・団体・生きものの見解ではありません。DATA COLUMN は公開時点の一般的な知見に基づいています(編集方針)。誤りのご指摘はお問い合わせへ。