夕方五時、煙突の下の番台
路地の奥、レンガの煙突から白い湯気が上がります。「弁天湯」は、この町で三代続く銭湯でした。番台に座る二代目の女将は、暖簾を出しながら壁の時計を見ます。かつては開店前から列ができた時間に、いまは誰もいません。
先月、息子が置いていった薄い板が、番台の隅で光りました。『経営分析ができます。業種と、お困りごとをどうぞ』——女将と人工知能の、湯気の立つ番台での出会いでした。
〜五つの力すべてが不利。ただしAIは、業界の名前を間違えていた〜
路地の奥、レンガの煙突から白い湯気が上がります。「弁天湯」は、この町で三代続く銭湯でした。番台に座る二代目の女将は、暖簾を出しながら壁の時計を見ます。かつては開店前から列ができた時間に、いまは誰もいません。
先月、息子が置いていった薄い板が、番台の隅で光りました。『経営分析ができます。業種と、お困りごとをどうぞ』——女将と人工知能の、湯気の立つ番台での出会いでした。
女将には、どうにもならないことが三つありました。ひとつ、重油の値段が上がり続けること。ふたつ、ボイラーを直せる職人が県内に二人しかいないこと。みっつ、入浴料を自分では決められないこと。
「うちの風呂代はね、あたしが決めてるんじゃないの。都が上限を決めてるのよ。」原価が上がっても、勝手には上げられません。「あたしの代で終わらせるのが怖いの。でもね、それより怖いのは——努力が足りないのか、そもそも無理な商売なのか、それが分からないことなのよ。」
女将は板に尋ねました。「銭湯って商売、まだ勝ち目があるのかい。」
女将はしばらく黙って、それから湯気の向こうを指さしました。「あんた、うちを”入浴設備提供業”って書いたね。」板が答えます。『はい。事業内容から分類しました。』「じゃあ聞くけどさ。うちの常連さん、家に風呂あるよ。全員あるの。それでも来るんだよ。……あたしら、風呂を売ってるんじゃないのよ。」
板は業界の定義を「入浴設備提供業」から「地域の居場所業」へ置き換え、五つの力を引き直しました。同じ商売が、まったく違う姿で現れます。
女将は暖簾を替えませんでした。値段も、湯の熱さも、番台の位置も、そのままです。ただ、脱衣所の隅にあった古い長椅子を二脚増やしました。「みんな、湯から上がったあと、ずいぶん長いこと喋ってるからさ。」
板は分析を書き直します。『訂正します。当職は事業内容から業界を”入浴設備提供業”と定義し、五つの力すべてを不利と評価しました。定義を改めたところ、不利のまま残ったのは④売り手の交渉力のみです。重油とボイラー職人の問題は、業界をどう呼び直しても消えません。』「そこは、あんたの言うとおりよ」と女将は笑いました。「そこだけは、ほんとに困ってるの。」
銭湯(一般公衆浴場)の入浴料金は、事業者が自由に決められるものではありません。物価統制令にもとづき、都道府県が上限額(統制額)を指定する仕組みになっています。東京都の場合、大人(12歳以上)の統制額は2026年8月1日から600円へ改定されました(それまでは550円)。中人200円・小人100円は据え置きです。改定は東京都公衆浴場対策協議会の報告にもとづいて行われます。
軒数の減少も続いています。全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会の集計では、銭湯は1968年に1万7999軒でピークを迎え、2022年には1865軒となりました。ピークからおよそ9割の減少です。高度経済成長期に住宅への内風呂の設置が急速に進んだことが、大きな要因として挙げられています。
一方で、サウナ人気や地域の交流拠点としての役割から、銭湯を建て替えずに受け継ぐ動きや、若い世代が経営を引き継ぐ例も各地で報じられています。「風呂に入る場所」以外の価値をどう位置づけるかが、経営の論点として語られることが増えています。
※ この物語はフィクションです。実在の人物・団体・生きものの見解ではありません。DATA COLUMN は公開時点の一般的な知見に基づいています(編集方針)。誤りのご指摘はお問い合わせへ。