朝六時の作業場、まだ木を削っていない
作業場の朝は、砥石の音から始まります。宮大工の棟梁は、鉋と鑿を並べ、一本ずつ刃を研いでいました。木に触れるのは、この作業が終わってからです。毎朝二時間、三十年ずっと同じ順番でした。
寺の改修を発注した施主が、工程管理のためにと置いていった端末が、道具箱の脇で光ります。『作業工程の分析ができます。工程と、お困りごとをどうぞ』——棟梁と人工知能の、砥石の音がする作業場での出会いでした。
〜5Sの採点は満点だった。ただしAIは、1000年という単位を知らなかった〜
作業場の朝は、砥石の音から始まります。宮大工の棟梁は、鉋と鑿を並べ、一本ずつ刃を研いでいました。木に触れるのは、この作業が終わってからです。毎朝二時間、三十年ずっと同じ順番でした。
寺の改修を発注した施主が、工程管理のためにと置いていった端末が、道具箱の脇で光ります。『作業工程の分析ができます。工程と、お困りごとをどうぞ』——棟梁と人工知能の、砥石の音がする作業場での出会いでした。
棟梁には気がかりがありました。今年入った若い衆が、朝の研ぎのあいだ手持ち無沙汰にしていることです。悪気はありません。ただ、意味が分かっていない。
先日とうとう聞かれました。「棟梁、それ、新しい刃に替えたほうが早くないですか。」答えに詰まりました。身体は理由を知っているのに、言葉になっていなかったのです。「昔からこうや」では、この子には届かない。
棟梁は端末に尋ねました。「うちの工程に、無駄はあるか。」
棟梁は砥石から手を離さずに聞いていました。それから、削りかけの檜を指差します。「これ、いつまで持たせる気や。」『仕様書では耐用年数の指定がありません。』「千年や。」端末が沈黙しました。「刃が甘いと、木の繊維が潰れる。潰れたところから水が入る。百年先に腐るんや。わしはその頃おらんけどな」
整理・整頓・清掃・清潔・躾の5つで現場を整える型です。製造業の改善手法として知られますが、最後の「躾」だけは他の4つと性質が違います。
棟梁は交換式の刃を試しませんでした。翌朝も、その次の朝も、いつもどおり砥石を出します。変わったのは、隣に若い衆を座らせたことでした。「ええか、これは道具の手入れちゃう。百年先に腐らんようにする作業や。」若い衆は黙って、自分の鑿を持ってきました。
端末は分析を書き直します。『訂正します。当職は評価期間を工期に設定しましたが、これは指定がなかったためです。耐用年数を千年とする場合、刃の状態が構造の寿命に与える影響は、工期短縮の便益を上回る可能性があります。ただし当職は、百年後の検証データを持ちません。』「持たんでええ」と棟梁は言いました。「そのために、こいつがおるんや」
宮大工の世界では、道具の手入れが仕上がりだけでなく建物の寿命に関わると語られます。鉋や鑿の刃が鈍っていると木の細胞が潰れ、そこから水が入りやすくなる——だから刃の状態は耐久性の問題である、という考え方です。
「最後の宮大工」と呼ばれた西岡常一は、法隆寺や薬師寺の再建に携わった棟梁として知られます。伝えられている言葉のひとつが「木を買わず山を買え」。木材を一本ずつ選ぶのではなく、育った山ごと見て、どの斜面のどの向きで育った木かまで踏まえて使い分ける、という考え方です。
また、樹齢千年の檜を使えば千年もつという見方も語り継がれています。法隆寺が1300年建ち続けているのは、1300年かけて育った檜が使われているから——木が育つのにかかった時間と、建物がもつ時間を対応させる発想です。工期という単位では現れない時間が、この仕事には織り込まれています。
※ この物語はフィクションです。実在の人物・団体・生きものの見解ではありません。DATA COLUMN は公開時点の一般的な知見に基づいています(編集方針)。誤りのご指摘はお問い合わせへ。