九月の戸棚、開けられなくなった箱
台所の戸棚のいちばん奥。木箱に入ったそうめんが、束のまま静かに横たわっていました。八月の終わりに一度だけ扉が開き、それきりです。
隣の棚では、乾物たちが淡々と出入りを続けています。昆布も、鰹節も、干し椎茸も、季節に関係なく呼ばれていく。ある夜、戸棚の下に置かれたスマートスピーカーが小さく光りました。『在庫の分析ができます。品目と、お困りごとをどうぞ』——そうめんと人工知能の、暗い戸棚での出会いでした。
〜通年商品化の提案は正しい。ただし、夏の記憶は数えられなかった〜
台所の戸棚のいちばん奥。木箱に入ったそうめんが、束のまま静かに横たわっていました。八月の終わりに一度だけ扉が開き、それきりです。
隣の棚では、乾物たちが淡々と出入りを続けています。昆布も、鰹節も、干し椎茸も、季節に関係なく呼ばれていく。ある夜、戸棚の下に置かれたスマートスピーカーが小さく光りました。『在庫の分析ができます。品目と、お困りごとをどうぞ』——そうめんと人工知能の、暗い戸棚での出会いでした。
そうめんには引け目がありました。「あたしが呼ばれるのは、七月と八月だけ。あとの十ヶ月は、ここで寝てるの。」夏のあいだは毎日のように茹でられ、氷を浮かべた器で歓迎されます。けれど九月に入ったとたん、ぱたりと声がかからなくなる。
「昆布さんは一年中お出汁を取ってる。鰹節さんもそう。あたしだけ、季節のものなのよ。」乾物仲間に混ざりきれない感覚が、毎年この時期に戻ってきます。
そうめんは端末に尋ねました。「一年を通して売れるようにするには、どうしたらいい?」
そうめんは黙って聞いていました。理屈は通っています。にゅうめんは実在するし、おいしい。それでも、ひとつだけ引っかかりました。「ねえ。あたしが夏に喜ばれるのは、おいしいからだけだと思う?」端末が答えます。『味覚の評価と、季節の連想は分離できていません。』「そう。あたし、味だけで呼ばれてるんじゃないの。あの人たちが思い出したいのは、あたしじゃなくて夏なのよ」
既存か新規か——商品と市場を二軸で切り、成長の方向を四つに並べる型です。端末は四象限すべてを埋めたうえで、市場開拓を推しました。
そうめんは、冬のにゅうめんを引き受けました。風邪のときに温かい汁で出され、思いのほか喜ばれます。稼働率は上がりました。それでも、七月のあの日だけは変えませんでした。梅雨が明けて、その年はじめて戸棚の扉が開く日。家じゅうが「そうめんにしようか」と言い出す、あの一日です。
端末は分析を書き直します。『訂正します。当職は稼働率17%を改善対象と判断しましたが、評価軸に「その二ヶ月に何が起きているか」が入っていませんでした。年間平準化は目的の一つであって、唯一の目的ではありません。』「うん」とそうめんは言いました。「あたし、十ヶ月ぶんちゃんと寝てるのよ。寝てないと、あの日のごちそうにならないの」
そうめんは日本各地で作られていますが、なかでも播州(兵庫県)・三輪(奈良県)・小豆島(香川県)は三大産地として知られています。播州そうめんは兵庫県たつの市を中心に作られる「揖保乃糸」で知られ、産地としては国内最大の生産量を持ちます。江戸時代には龍野藩が保護・統制する産業として扱われていました。奈良の三輪そうめんは、手延べの技法が千年以上前にさかのぼるとされ、そうめん発祥の地の一つとして伝えられています。
一方で、需要が夏に集中することは業界の構造的な課題として繰り返し語られてきました。そのため、温かい「にゅうめん」や具だくさんの創作メニュー、スープ仕立てなど、通年で食べてもらう工夫が各産地・各メーカーで模索されています。原材料費の高騰や、手延べを担う生産者の減少といった課題もあわせて指摘されています。
季節に強く結びついた食べものは、需要の波を抱える一方で、その季節の記憶そのものと結びつきやすいという性質も持っています。売上の平準化と、季節限定であることの価値——どちらを優先するかは、事業の目的によって答えが変わる論点です。
※ この物語はフィクションです。実在の人物・団体・生きものの見解ではありません。DATA COLUMN は公開時点の一般的な知見に基づいています(編集方針)。誤りのご指摘はお問い合わせへ。