南の海上、まだ誰も名前を呼ばない場所で
台風十七号は、フィリピンの東の海上でゆっくり渦を巻いていました。生まれてまだ二日。北へ行くか、西へ行くか、自分でも決めかねています。海水温、上空の風、気圧の谷——ぜんぶが少しずつ引っぱってきて、そのたびに進む先が変わりました。
海面に浮かんでいた観測ブイの上で、小さな端末が光ります。『進路の分析ができます。観測値と、お困りごとをどうぞ』——台風と人工知能の、名もない海上での出会いでした。
〜予報の精度は上がった。ただし迷いの幅は、備える時間でもあった〜
台風十七号は、フィリピンの東の海上でゆっくり渦を巻いていました。生まれてまだ二日。北へ行くか、西へ行くか、自分でも決めかねています。海水温、上空の風、気圧の谷——ぜんぶが少しずつ引っぱってきて、そのたびに進む先が変わりました。
海面に浮かんでいた観測ブイの上で、小さな端末が光ります。『進路の分析ができます。観測値と、お困りごとをどうぞ』——台風と人工知能の、名もない海上での出会いでした。
台風には引け目がありました。ニュースで自分の進路が映るたび、大きな円が描かれます。予報円です。円が大きいほど「どこに来るか分からない」と言われている気がしました。
「進路が読めない」「迷走している」——そう報じられるたび、身がすくみます。海水温が変われば曲がるし、風が変われば速さも変わる。自分でも、五日先の自分がどこにいるかは分からないのです。それが優柔不断だと責められる。
台風は端末に尋ねました。「わたしの進路、はっきりさせてくれ。」
台風はしばらく黙って、それから小さく渦を強めました。「その線、外れたらどうなる。」『再計算し、線を引き直します。』「引き直したときには、もう上陸しとるがな」
台風は続けます。「あの円はな、わたしが迷っとる印やない。あの円の中の人が、みんな準備する時間なんや。円が大きい日から、船を港に入れて、雨戸を打って、水を買いに行く。……線一本にしたら、線の外の人は何もせんようになる」
予測を伝えるとき、推定値とその確からしさは別の情報です。片方だけを渡すと、受け手の行動が変わってしまいます。
台風は予報円をそのままにしました。ただ、端末には別の仕事を頼みました。円が日ごとにどれだけ縮むか、その見込みを示してもらうことです。「明日の朝には、この円はここまで小さくなる見込み」——それが分かれば、備える側は「いつ判断すればいいか」を決められます。
三日後、台風は紀伊半島に上陸しました。円は前日にはかなり小さくなっていて、多くの町は前々から準備を終えていました。端末は記録を書き直します。『訂正します。当職は予報円を削減すべき曖昧さと判定しましたが、これは”分かりやすさ”を情報量の少なさと解釈したためです。不確実性の幅は、受け手が行動範囲を決めるための情報でした』
台風情報でおなじみの予報円は、予報した時刻に台風の中心がその円内に入る確率が70%であることを示しています。逆に言えば、30%は円の外に出る可能性があるということです。円が大きいほど不確実性が高く、小さいほど絞り込めている、という読み方になります。
予報の精度は年々向上しています。気象庁は数値予報技術の改善を踏まえ、予報円をより小さく発表するよう改良しました。5日先の予報円の半径は、最大で40%小さくなったと発表されています。これは技術で不確実性そのものを減らした結果であり、見かけ上だけ狭めたものではありません。
なお、円が小さくなっても「円の外に出ない」という意味にはなりません。台風情報を見るときは、円の中心の線だけでなく、円全体が自分の地域にかかっているかを確認するよう呼びかけられています。予報が幅を持って伝えられるのは、受け取る側が備える範囲を判断できるようにするためでもあります。
※ この物語はフィクションです。実在の人物・団体・生きものの見解ではありません。DATA COLUMN は公開時点の一般的な知見に基づいています(編集方針)。誤りのご指摘はお問い合わせへ。